2010年6月4日金曜日

理由

私がクリスチャンになったころは「なぜ?」「なぜ なんですか?」と教会の人達にキリスト教や聖書の事を何時も聞いていた。(私の性格上どうしても理由が知りたくなる。)
そして「聖書に書かれているから」と親切に聖書に書かれている箇所を示しながら説明してくれた。

しかし、時折それでも納得がいかないことがあった。
「聖書は神の言葉だから従わなければならない」というのは分かっていたのだが「なぜ神はこんな事を言ったのだろう?」と疑問を抱くことがたびたびあった。聖書の権威に疑問を抱いているわけではなく、ただ単に「なぜ聖書に書かれているのか?」と理由が知りたいことがあった。
「神が私たちにとって良いことだと考えているから 聖書に書かれている」と解答するのも一つの理由だが
「なぜ、神は私たちに それは良いことだと考えるのか?」と疑問を感じてしまう。

キリスト教のことを勉強していると「理由を究極に追求するのは不可能では?」となってきた。人間は神ではないのだから、神が言った理由の答えを人間が出しても その答えが100%正解といえるか? 自信を持ってイエスの前で「私の答えが正しいです!」と言い切れるのだろうか?となってくる。

例えば「なぜ 神は男と女を創ったのか?」と疑問があがってくるとしよう。もちろん答えは「私たちにとってよいことだから」となるが
「男女とはどんな意味があるのだろうか?」と疑問になってくる。
「カップルが結婚し、子供をつくり、夫が働き、妻が子育てをする。そして、子孫を残す。」というシンプルな時代に私たちは住んでいないからだ。
「男女は全てに関して平等なのか?」「夫が家長ということは差別になるのか?」「男女の役割は全て一緒なのか?」「女性は男性の聖職者を指導してよいのか?」「時代・文化が変わるとその時に応じて解答を変えてよいのか?」と問題がでてくる。
聖書を読んでも簡単に答えはでてこない。一方 キリスト教リーダーは解答を迫られる。そして、様々な解答が出てくるが「果たしてどの解答が正しいのか?」となってくる。もちろん様々な解答提出以前には、専門家たちが慎重にリサーチをして結論をを出す。さらに、それぞれの結論に絶対的な自信を持っている人達もいるだろう。 「イエスはどの様に裁くのだろうか?」

「お祈りをし、ベストを尽くす」 私たちに出来ることは これぐらいでは。そして、難しい問題に熱中せず 神を愛し隣人を愛すことに専念をするのがよいのでは。