2010年5月31日月曜日

キリスト教の規則

「クリスチャンになったら離婚できないんでしょ、だから絶対にクリスチャンにならない・・・」と知り合いがコメントをした。
なかなか鋭い観察で、「絶対にクリスチャンにならない」ときっぱりとした宣言だ。
「それなら、離婚が許可されているのならクリスチャンになるの?」と問い返してみようと思ったが、きっと他のキリスト教に関する納得がいかない事を言い出して 言い訳のようにクリスチャンにならない理由を挙げてくるのだろうと思ったので黙っていた。(単にキリスト教の嫌いなところを指摘してキリスト教徒にならない理由を正当化させる人がよくいる。)
それならば「クリスチャンにならないと地獄へ落ちるぞ。離婚と地獄にいくのとどっちがいいのか?」と言ってみようかと ふと考えたが こんな事を口に出したら
「キリスト教徒に脅された!」とかえって逆効果になるので 沈黙をたもった。

クリスチャンになるといろいろな規則を守らなくてはならないので、クリスチャンになることをためらってしまう人がいのではないだろうか。
「貴重な休暇の日曜日に教会に行かなくてはいけない。忙しい時間をさいて祈りをしなくてはいけない。禁酒・禁煙など禁じられることがたくさんある。わざわざそんな事をしてまでキリスト教徒になるのは 実際価値があるのだろうか?」と考えてしまうのはもっともだ。更に、こういった面からキリスト教を観察すると何も楽しいことが見つからないだろう。

さて、キリスト教徒としてこういったイメージを抱いている人達にどの様に対応するのか?というのが課題になってくる。確かに聖書には離婚をしてはいけないと書かれているが、実際に離婚をして再婚をした牧師が結構いるし、禁酒・禁煙などと聖書には はっきりと書かれていない。それに、規則を守るから人は救われるのではなく、神の恵みによって救われると聖書には書かれている。 かといってキリスト教徒は離婚し放題、酒飲み放題、タバコ吸い放題とキリスト教徒でない人に理解されても困ってしまう。

キリスト教徒になって規則を破ると イエスキリストはその人を見放すのか?それともキリストの愛で永遠にその人を見守ってくれるのか?規則の破り方によって条件が変わってくるのか?と難しくなってくる。
更に、キリストを信じ悔い改めよ とあるが「悔い改めよ」とはどういった意味なのか?ということが問題になってくる。
キリスト教徒になっても罪を犯し続けるのだから あまり深く考えず キリストに感謝しグッスリと眠るということがいいのでは。