このブログには聖書の引用がほとんど無いので
「キリスト教の事を書いていて聖書をほとんど使わない。クリスチャンとしてけしからん」と解釈されるのでは、とふと感じた。教会での説教は聖書が中心だし、神学校の先生はいつも「神学は聖書からだ!」 と繰り返し言っていたし「聖書のことを中心に話さない教会は危険だ!」 なんてキリスト教のラジオでも誰かが戒めるように言っていた。確かにそのとおりだと納得する。そんな事を考えていると このブログは聖書のことが出てこないので「けしからん」「危険なキリスト教のブログ」といわれても仕方が無い。
しかし、ブログは教会のサービスとは違い自由にキリスト教のことを書けるのだから特に問題にはならないのでは。でも、真剣にキリストのことを考えている人は自然と聖書が中心のブログになるのでは、などと考えてしまう。
それでは 「私はキリストの事を真剣に考えていないので聖書の事がブログに出てこない」と結論を出されてしまうのも仕方が無いことだ。私自身としては頑張ってキリストのこと・聖書のことを考えながら書いているつもりなのだが・・・
「それなら 聖書のことをあまり知らないのでブログで聖書を使えない かっこ悪いクリスチャン」と言われそうだ。聖書のことをあまり知らないのか?と自分自身に問いただしてみると なんと答えていいのか戸惑ってしまう。いちおう、バイブルカレッジやセミナリーなどて勉強したので聖書のことをあまり知らないことは無いと思が、特別、聖書のことに詳しいと断言できるわけでもない。
「なんだかんだと言い訳をしても、聖書を使っていないのは事実。やっぱり だらしないクリスチャンだ」となってしまうだろう。確かに、聖書を使わないで書き物をするとキリスト教徒の間であまりいい顔をされないので、ちょっと気が引けるときもある。
「それななら、『今日は、使徒言行録2章1-13節』などと聖書の説明を始めるのが無難なブログになるのに、なぜ聖書のことを書かないのか?」となる。 キリスト教徒になってから、教会で牧師の話などを聞いていると、もちろんの事だが、聖書中心の話しになる。そして、聖書の話を聞いているうちに、次第に私は ごく普通のクリスチャンが日常生活をどの様にキリスト教徒として生きていくのか?そして、日曜日の教会での牧師の聖書中心の話が直接日常生活でどのように役に立つのだろうか?と考えるようになった(聖書は だいぶ前に その時の文化を背景に書かれているので、どの様に日常生活に応用すればよいのか?)。ごく普通のサラリーマンをやっているクリスチャンが不景気な競争社会をどの様に生きていくのか?キリスト教徒ではない上司や会社の人達や 取引先の人達と多くの時間を過ごさなければならない。毎日様々な判断・決断をしなければならないので、常にキリスト教の道理に従うわけにも行かなくなるだろう。 そういった環境の中でどの様にキリスト教徒として信仰を深めていくか? このような事を考えていると、日常生活をシナリオにして それをキリストの教え・聖書の原則に結び付ける事も必要なのではと考えながらブログを書いているわけである。
聖書がこのブログに出てこない他の理由は:
「なぜ、私は日本でキリスト教に興味が無かったのか?」と疑問を持ちながら書いている。もちろん、聖書を読んで(特に新約聖書)キリスト教徒になった人たくさんいるだろうが、私みたいなタイプは「聖書を読め!」と言われると、読みたくなくなるタイプ。私みたいなタイプの人達はどの様にしたらキリスト教に興味を抱くのか?と考えながら書いているので自然と聖書は頻繁に出てこない。