「この前宝くじを買って『宝くじが当たりますように!』とお祈りをしたのに、なぜイエス様は祈りをかなえてくれないのだろう? 聖書には祈りをすれば神がかなえてくれると書いてあるし、殺人 離婚 みだらな心などと、特に聖書に書いてある戒めに反することを祈ったのでもない。会社は倒産したし、家計は苦しい。金持ちはクリスチャンになるのが難しいと聖書には書いてあるが、特に大金持ちになろうなんて考えてえいないのだが・・・ 教会の人に こんな事を尋ねたら『クリスチャンは近道を考えず、きちんと地道に働かなくてはいけない!』などと言われそうだ・・・」なんて疑問をいだいたクリスチャンがいのではないだろうか。
キリスト教の理にかなっている願いをして、その願いがかなわなかったらがっくりしてしまう。さらに、世の中には困窮しているキリスト教徒はたくさんいる。困り果てた瀕死の状態で祈りをしても、祈りがかなわないときなどは 何も言葉が出てこないのでは。願い事がかなわないのでキリスト教徒としての信仰が揺さぶられることもあるだろう。無神論者はこんな苦しみを指摘して神の存在を否定する。
不思議と、私は「なぜ お祈りをかなえてくれないか?」と疑問に思ったことはあまり無い。むしろ、あまりお祈りがかなうので、イエス様に恐縮してしまうことがある。恥ずかしい話だが、時折お祈りをして、お祈りをしたものをいただいて「浅はかな願い事をしてしまった」と後で後悔することがある。
何か辛いことがあると、クリスチャンになった頃は悪霊の仕業だと考えていたが、キリストと共に歩んでいくとその辛い状況は、私の浅はかな行動の結果から起きたこと、又は 神が私に試練を与えているのだと考えるようになった。もちろん悪霊の仕業という可能性もあるが、聖書を読んだりお祈りをしたりして キリストとの関係を深めていくとキリストは知恵を授けてくれる。そいて、目の前にある苦行は神からきたものなのか、自分の愚かさから起きたものなのか、悪霊からなのかと分かってくる。
神が私に試練を与えて、私が文句を言っても仕方がない。嫌でも受け入れなければならないといった具合になる。
頼みごとをするときに その頼みごとが本当に必要なのかは 聖書を読んだりして、キリストとの関係を深めると次第に分かってくる。そして、数年間そのお祈りをし続ければ神はその祈りをかなえてくれる。一週間たってその頼みごとを忘れていれば、それは私にとって重要ではないということになる。
もちろん「お祈りをする」ということは「頼みごとをする」ということだけではないが 私たちキリスト教徒はイエスに頼らなければ生きていけないということも重要だ。どんな頼みごとをするか、何時 頼みごとをするか ということも主なる神が教えてくれる。