2010年6月25日金曜日

聖書

最近、Twenty Four のシーズン1のDVDが半額以下で販売されているのを店頭でチラッとみかけた。24は人気があると聞いたことがあったが、今まで見たことが無かったので つい購入してしまった。 さすがに、人気番組だ!それがきっかけとなって、24の作家は上手くストーリを組み立てていると感心しながら シーズン2・3・4・5・6とはまり込んでしまった。

「テレビばっかり見ていないで、クリスチャンは聖書を読んだりお祈りをしたり 時間を有効にキリストのために使わなくてはいけない・・・」などと 車を運転していたらラジオからメッセージが流れて来た。
「確かに聖書を読む時間をTwenty Fourを見る時間に置き換えている!」ラジオからのメッセージは 私のクリスチャンとして欠けている日ごろの行いを鋭く指摘した。あまりタイミングがいいので神からの戒めのメッセージなのかと反省。
クリスチャンはTwenty Fourのような番組を見ていいのか とふと考えたが 後で考えることにした。

しかし「聖書を読め!」と言われても・・・
聖書は分厚いので気合がないと なかなか読む気になれない。それに、どこを(どこから)読めばいいか分からない。イエスはイザヤ書から引用したような覚えがあるのでイザヤ書を読もうと思ったが、66章もあるし、難しいので読むのを諦めたことがある。
「聖書を読め」と言われるのはいいが、もう少し親切に何処を読めと言ってくれたほうが助かるのだが。

2010年6月23日水曜日

キリスト教

「なぜ、日本にはキリスト教が広まらないのか?」と たびたび聞かれる。隣国の韓国や中国では基督教が広まっていると聞くが「日本でクリスチャンが増えている」とは耳にしないので疑問を抱くのだろう。
「何故だか分かっていたらキリスト教は既に広まってるんじゃないですか」などと解答をごまかすことがある。開国後、日本は急速に欧米諸国(キリスト教国)から様々なことを学び、欧米諸国に追いつき先進国の仲間入りしたのだが、キリスト教を受け入れることだけは例外になってしまった。そんな事を考えると、やはり疑問になってしまう。

一言で言ってしまえば「日本人はキリスト教に興味が無い」というのが理由ではないだろうか。興味が無いのでキリストから救われる必要性が分からないとなるのでは。
歴史的に、日本で三回(ザビエル伝道後、開国後、第二次世界大戦後)キリスト教が布教するチャンスがあったような気がするが、仏教や神道のように国からフルサポートされなかった。国からのサポートが欠けると、日本文化に浸透しない。日本人は“日本人”としての国民性が強いので、日本文化の一部なっていない思考や宗教は自然と注目しない。この理由が大きいのだろう。(国とキリスト教を結び付けていいのか?と議論になりそうだが、ここでは、昔、国が宗教を援助して、その宗教がその国に広まるというパターンがあったのではということ。)

2010年6月22日火曜日

カトリック

私がプロテスタントになってから、時折カトリックの話が私の周りで始まる。不思議と、カトリックの話が始まる時に、元カトリックが会話に参加している事が多い。
会話の内容は必ずと言っていいほどカトリックの痛いところを指摘する。あまり人気が無いので何時も気の毒になってしまう。カトリックの人達と天国であったらどうするのか?などと感じてしまう。そして、あまり気の毒なので、カトリックの悪口が始まると、時折カトリックの弁護をするようになってしまった。

私はキリスト教の事を何も知らない状態で教会に通い始めた。たまたま誘われた教会がプロテスタントだったから、私はプロテスタントになったのだと感じる。もしその教会がカトリックだったら、カトリックになっていただろう。こんな軽い感じで考えているので、カトリックの教えは間違っているのか?とあまり考えないし、気にもならない。きっと、どのプロテスタントの神学を考えることに忙しく、カトリックの神学を考える時間が無いからかも知れない。

2010年6月20日日曜日

子供料金をごまかす

子供料金をごまかすことは 多くの親がやっているのでは(私のしっているかぎりでは)。そして、まともに子供料金を払うと なんだか損をする感覚になってしまうのではないだろうか。ある親が得意になって「家の子は小学生に見えないから、子供料金を払わないですむ・・・」と 賢くお金を節約した話がでると、なんだか正直に子供料金を払っているのが かっこ悪くなる。
さて、クリスチャンが子供料金を正直に払っていなかったらどうするか?ということが問題になっていく。
1)制限速度を守らないことと同じように皆がやっていることだし、法律を破るとかの深刻な問題ではない。規則を守るとか 守らないとか でクリスチャンは救われるわけではない。家計も苦しいし牧師でもないので問題ではない。それに、もし牧師がやっていても、その気持ちが良く分かるので特に問題ない。節約したお金で困っている人を助けたほうがよほど良いことだ。
2)キリスト教徒はどんな時でも正しい事をしなくてはならない。子供料金をごまかすのは明らかに間違っているので、どんな状況でもきちんと子供料金を払うべきだ。それなので悔い改めなければならない。
3)特に隣人に迷惑が掛かることは無いし、何か特別な理由があるかもしれないので勝手に他のキリスト教徒を裁いてはいけない。それなので各自の意志を尊重するべき。

一番の問題は、1をサポートするクリスチャンと2をサポートするクリスチャンが話し合うことだ。子供料金を払うか払わないかで気まずい関係が出来るのは理想ではない。子供料金を払わないことで罪悪感がないクリスチャンに、無理やり払わせても、反対に、自己の意思に反して払わされるので 怒りを覚えるのかも知れない。こんな事を考えると牧師でなくて良かったなどと感じてしまう。料金をごまかして そのことを傲慢しているクリスチャンが教会にいると判明したら その教会は聖書のどの箇所を使い どのような態度をとればよいか?
こういったことは 問題が直面するまであまり深く考えない というのが無難では。

聖書

このブログには聖書の引用がほとんど無いので
「キリスト教の事を書いていて聖書をほとんど使わない。クリスチャンとしてけしからん」と解釈されるのでは、とふと感じた。教会での説教は聖書が中心だし、神学校の先生はいつも「神学は聖書からだ!」 と繰り返し言っていたし「聖書のことを中心に話さない教会は危険だ!」 なんてキリスト教のラジオでも誰かが戒めるように言っていた。確かにそのとおりだと納得する。そんな事を考えていると このブログは聖書のことが出てこないので「けしからん」「危険なキリスト教のブログ」といわれても仕方が無い。
しかし、ブログは教会のサービスとは違い自由にキリスト教のことを書けるのだから特に問題にはならないのでは。でも、真剣にキリストのことを考えている人は自然と聖書が中心のブログになるのでは、などと考えてしまう。
それでは 「私はキリストの事を真剣に考えていないので聖書の事がブログに出てこない」と結論を出されてしまうのも仕方が無いことだ。私自身としては頑張ってキリストのこと・聖書のことを考えながら書いているつもりなのだが・・・
「それなら 聖書のことをあまり知らないのでブログで聖書を使えない かっこ悪いクリスチャン」と言われそうだ。聖書のことをあまり知らないのか?と自分自身に問いただしてみると なんと答えていいのか戸惑ってしまう。いちおう、バイブルカレッジやセミナリーなどて勉強したので聖書のことをあまり知らないことは無いと思が、特別、聖書のことに詳しいと断言できるわけでもない。
「なんだかんだと言い訳をしても、聖書を使っていないのは事実。やっぱり だらしないクリスチャンだ」となってしまうだろう。確かに、聖書を使わないで書き物をするとキリスト教徒の間であまりいい顔をされないので、ちょっと気が引けるときもある。
「それななら、『今日は、使徒言行録2章1-13節』などと聖書の説明を始めるのが無難なブログになるのに、なぜ聖書のことを書かないのか?」となる。 キリスト教徒になってから、教会で牧師の話などを聞いていると、もちろんの事だが、聖書中心の話しになる。そして、聖書の話を聞いているうちに、次第に私は ごく普通のクリスチャンが日常生活をどの様にキリスト教徒として生きていくのか?そして、日曜日の教会での牧師の聖書中心の話が直接日常生活でどのように役に立つのだろうか?と考えるようになった(聖書は だいぶ前に その時の文化を背景に書かれているので、どの様に日常生活に応用すればよいのか?)。ごく普通のサラリーマンをやっているクリスチャンが不景気な競争社会をどの様に生きていくのか?キリスト教徒ではない上司や会社の人達や 取引先の人達と多くの時間を過ごさなければならない。毎日様々な判断・決断をしなければならないので、常にキリスト教の道理に従うわけにも行かなくなるだろう。 そういった環境の中でどの様にキリスト教徒として信仰を深めていくか? このような事を考えていると、日常生活をシナリオにして それをキリストの教え・聖書の原則に結び付ける事も必要なのではと考えながらブログを書いているわけである。
聖書がこのブログに出てこない他の理由は:
「なぜ、私は日本でキリスト教に興味が無かったのか?」と疑問を持ちながら書いている。もちろん、聖書を読んで(特に新約聖書)キリスト教徒になった人たくさんいるだろうが、私みたいなタイプは「聖書を読め!」と言われると、読みたくなくなるタイプ。私みたいなタイプの人達はどの様にしたらキリスト教に興味を抱くのか?と考えながら書いているので自然と聖書は頻繁に出てこない。

2010年6月18日金曜日

ごまかす

”入場料:五歳未満 無料”とプールの料金案内に表示されていた。次男は二日前に五歳になったが、四歳と行ってしまおうか・・・とキリスト教の教えとは全く反した事を考えかたをしてしまった。その時、大人一人、子供一人の無料入場券を持っていったが、次男が五歳になってしまうと大人一人、子供二人と足し算が合わなくなってしまう。さらに、最近、入場料が値上がりしたので・・・ 
先週、プールに行っとけばこんな事は考えずに済んだのにと後悔したが、そんな事を考えても何も始まらない。 入場券を渡すときに
「お子さんは何歳ですか」と聞かれたので 仕方なく
「ご、五歳と七歳です」と言ってしまった。
すると
「今日は、この券だけで大丈夫ですよ!」と予想外の解答が笑顔で返ってきた。
「え、本当ですか、ありがとう」とホッとした。

後でこの出来事を考えてみると、初めからセコイことは考えないで正直に子供料金を払えば、なんとも言えない罪悪感に浸されずに済んだのでは。きっとこれは 「醜い事を考えず、いつでも正しい事をする。そして、正しい事をすれば後で必ず見返りがくる。」という主の神からのレッスンなのではと感じた。
クリスチャンは何か予期していなかった良い出来事があると神に感謝するのが普通だが、クリスチャンでは無い人達はどの様に考えるのだろう とふと感じた。「ラッキー」「運が良かった」などと考える人が多いだろうが その運はどこから来ると考えるのだろうか?全ての出来事が主の統治下にあることに気づいてくれればよいのだが。

2010年6月15日火曜日

聖書

「聖書は神の言葉だ!」
「はい、全くそのとおりです!」と素直に答えることが出来るようになったのは、正直なことを言ってしまえば 数年掛かった。長い間、「ホンとかな?」と聖書の所々で疑問を感じた。さらに「聖書は神の言葉でミスが無い」と頭越しに言われても、なんと対応していいのか困ってしまった。もちろん 主の神にはミスは無いが、人間はミスをする。人間が書いた書物に一つもミスが無いのか?と疑問を感じた。それに、創世記前半では、けっこう人が長生きする 実際に数百年も人間は長生きできるのだろうか?とか、義務教育で進化論を教わるので、本当に主の神は人を土から創ったのか?と科学的な見方をしてしまう。もし、学校のテストに進化論のことがでたら、クリスチャンとしてどうやって解答すればよいのだろう?などと考えていた。
不思議と、時が経つにつれて聖書に対する疑問が無くなっていった。聖書の中の出来事を批判するエッセイを読んでも、聖書を疑うことは無かった。
もう一つ不思議なことは「なぜ聖書を神の言葉と信じるのですか?」と聞かれたら、特に理論的で他の人が満足できそうな理由が思い浮かばない。もちろん、聖書の真実性をサポートするエッセイも読んだし 話も何回も聞いたが 特に「これだ!」と心に響いたものは無かったような気がする。主が聖書を信じるように手伝ってくらたからです と非理論的な答が浮かんでくるのだが はたして、そんな答え方をして良いのだろうかと不安になる。

神学では「聖書は神の言葉でミスが無い」という解釈の仕方には いろいろあるようだが、実際に教会に通っている人達はどのように考えているのか と興味を抱く。何時もキリスト教や聖書のあら捜しをしていると健康なキリスト教徒になれないが、もし聖書に疑問を抱いている人がいたら、健康なクリスチャンになるために真剣に話し合ったほうがよいのでは。

2010年6月14日月曜日

神の存在

「お父さん、『神は本当にいる』ってどうやってわかるの?」と息子に質問された。
「主の神は見えないし触れることができない」なんて事を以前説明してしまったから、きっと「神は本当に存在するのか」と考えてしまうのだろう。さらに、学校で友達から「あそこにはお化けがでるんだぞ」「誰かが お化けをあそこで見た・・・」なんて話を聞くと 実際に「出た」「見た」と話が始まるので 「お化けは本当に いるのかな」などと考えてしまうのも無理はない。それに比べて「主の神が出た」「神を見た」なんて話は聖書以外では耳にしないので 神の存在に疑問を抱いてしまうのだろう。学校に行かせると勉強以外に余計なことを覚えてくる、全く困ったものだと考えながら、きっと三位一体説を説明すると「なぜ神が出た・見た」などと話を聞かないのかと説明できるのではと・・・
とにかく、息子の質問は「神が存在するか」ということだ。
こういった質問に答えるのは結構好きなので、さてどの様に説明しようか、たしか三つぐらい論理的に神の存在の証明の仕方があったな、デザイナーがいるなんて説明しようか、空気、酸素、原子、人間、臓器、細胞、などと考えていたら、小学校一年生は こういった言葉の意味をまだ知らない。そのような事を説明するのには膨大な忍耐と時間が掛かりそうだ、でもうやって説明しようかと困ってしまった。
聖書を使わないで神の存在を説明するのは大変だ。毎晩、妻が聖書を子供が寝る前に読むが 子供は聖書を昔話や物語のように聞いているのだろうか、それとも神の言葉だと受け止めているのだろうか と いろいろと悩んでしまった。

2010年6月11日金曜日

病気が治った

聖書の勉強会に行っていた時、年配の人が数十年前の話をしてくれた。
その年配の人には持病があり、直ぐにでも車椅子状態だった。そんな時、妹から「私のところに少し泊まりに来ない」と電話がかかってきた。妹が住んでいる所は 飛行機で数時間掛かるし 足は不住だ いったいどうしようかとためらってしまった。そして、お祈りをし 一晩考えて どうしても胸騒ぎがするからと 飛行機に飛び乗って妹の所に行った。
日曜日になり妹と共に教会に行った。教会のサービスが終る間際に「何か病気で困っている人は お祈りをするので 前に来てください」と牧師がアナウンスした。
その年配の人は 「どうしようかな」とちゅうちょしたが、妹が強引に勧めるので前に出て行った。
牧師と数人の教会の人が手を年配の人にあてて お祈りを始めた。
すると、足の痛みもとれ不住なく 歩けるようになった。妹は こんなことが起きるのではと胸騒ぎがしたので わざわざ遠いところから呼び出して教会に来させた・・・と その経緯を説明し始めた。

キリストが病気を癒してくれた とってもありがたい話だ。こんな話を聞くと、聞いた人(信者・無信者)はどのように受け止めるのだろうか? きっと、信者の間でも、無信者の間でも様々だろう。考えが正しい方向に向かうと幸いだ。

2010年6月10日木曜日

キリスト教の教え方

「キリストって誰なんでしょうか?」と質問が息子の日曜学校であって
「100%神で100%人間です」と息子が答えたと自慢げに教えてくれた。
困ったことは、私が息子にキリストは誰かと教えたことを丸覚えしただけで
答えが正解でも、これがどんな意味か息子は理解していない。もちろん、三位一体説を小学校一年生が理解できるはずが無いが、果たしてこんなことでいいのだろうか?と不安になる。

そんな事を考えていると、私が教会に行き始めた頃を思い出した。教会に通いだした頃は、牧師の説教の意味が何も理解できなかった。何時も「何で、周りの人達は関心して説教を聴いているのか?」と不思議に思った。それどころか、説教を聴いているのが苦痛になることが多かった。

そして、時が少し経ち 今度は教会の人達が私に「イエス・キリストとは誰か」と真剣に説明し始めた。「私たちは罪びとだ。」「イエスは私達の罪のために十字がにかかげられた。」「主は私たちを愛してくれている。」などだ。何回も繰り返し教えてくれたので私はそのこと理解しないまま 丸覚えしてしまった。そして、徐々に教会に行くのが面白来なくなっていた。なぜならば、教会にいくと興味のないキリスト教の話が永遠と続くからだ。教会に行くようになったのはフレンドシップを拡げるためで、キリスト教に興味があったわけではない。更に、教会に通い始めても特にキリスト教に興味を抱かなかった。
結果的には 私はキリスト教のことを話すが大好きになったのだが、果たして 私の息子もいやいやと私のキリストに関する説明を聞いているのだろうか と疑問に感じる。
教会に来る無信者の人達には、押し付けるようにキリストのことを教えるのか、それとも、興味がその人達にでるまで ゆっくりと待つのが最適なのだろうか。
私の場合は、キリスト教の考えを押し付けられるのは苦になっていたが、押し付けられていなかったら、クリスチャンにはなっていなかっただろう。

2010年6月8日火曜日

お祈り

「この前宝くじを買って『宝くじが当たりますように!』とお祈りをしたのに、なぜイエス様は祈りをかなえてくれないのだろう? 聖書には祈りをすれば神がかなえてくれると書いてあるし、殺人 離婚 みだらな心などと、特に聖書に書いてある戒めに反することを祈ったのでもない。会社は倒産したし、家計は苦しい。金持ちはクリスチャンになるのが難しいと聖書には書いてあるが、特に大金持ちになろうなんて考えてえいないのだが・・・ 教会の人に こんな事を尋ねたら『クリスチャンは近道を考えず、きちんと地道に働かなくてはいけない!』などと言われそうだ・・・」なんて疑問をいだいたクリスチャンがいのではないだろうか。
キリスト教の理にかなっている願いをして、その願いがかなわなかったらがっくりしてしまう。さらに、世の中には困窮しているキリスト教徒はたくさんいる。困り果てた瀕死の状態で祈りをしても、祈りがかなわないときなどは 何も言葉が出てこないのでは。願い事がかなわないのでキリスト教徒としての信仰が揺さぶられることもあるだろう。無神論者はこんな苦しみを指摘して神の存在を否定する。

不思議と、私は「なぜ お祈りをかなえてくれないか?」と疑問に思ったことはあまり無い。むしろ、あまりお祈りがかなうので、イエス様に恐縮してしまうことがある。恥ずかしい話だが、時折お祈りをして、お祈りをしたものをいただいて「浅はかな願い事をしてしまった」と後で後悔することがある。
何か辛いことがあると、クリスチャンになった頃は悪霊の仕業だと考えていたが、キリストと共に歩んでいくとその辛い状況は、私の浅はかな行動の結果から起きたこと、又は 神が私に試練を与えているのだと考えるようになった。もちろん悪霊の仕業という可能性もあるが、聖書を読んだりお祈りをしたりして キリストとの関係を深めていくとキリストは知恵を授けてくれる。そいて、目の前にある苦行は神からきたものなのか、自分の愚かさから起きたものなのか、悪霊からなのかと分かってくる。
神が私に試練を与えて、私が文句を言っても仕方がない。嫌でも受け入れなければならないといった具合になる。

頼みごとをするときに その頼みごとが本当に必要なのかは 聖書を読んだりして、キリストとの関係を深めると次第に分かってくる。そして、数年間そのお祈りをし続ければ神はその祈りをかなえてくれる。一週間たってその頼みごとを忘れていれば、それは私にとって重要ではないということになる。
もちろん「お祈りをする」ということは「頼みごとをする」ということだけではないが 私たちキリスト教徒はイエスに頼らなければ生きていけないということも重要だ。どんな頼みごとをするか、何時 頼みごとをするか ということも主なる神が教えてくれる。

隣人の子供

よく近所の子供が遊びに来る。特に問題は無いのだが、時折ウンチを私の家でする。お尻を拭くサポートを頼まれるのだが、ちょっと戸惑ってしまう。私の息子だったら、そのような戸惑いは無い。隣人を自分のように愛することは とてもキリスト教徒にとって大切で欠かせないことだと分かっているのだが・・・ 
近所の子を自分の子友のように愛していないので、戸惑ってしまう。これも、神が私に与えた試練なのだろうと息を止めてサポートする。

教会

「教会ってどうやって選ぶの?」と軽い感じで聞かれたら
「通いやすい場所にあって、優しく親切な話の合う人達がいる教会に行けば」「知り合いが教会に通っているのならその人と行けば」など答えるだろう。(れぞれの宗派に誇りを持っている人の中には この回答に遺憾を覚えるのでは と考えたりもするが・・・)
そういえば神学校に通っていた時、初めのコースの時間に自己紹介があった。その時に、各自が行っている所属の教会を言わなければならなかった。
「給料もらえるなら、何処の教会でもいきます・・・」と ある生徒が自己紹介のときにコメントした。クラスは一瞬あっけにとられたが、よく考えてみると「宗派は重要ではない」というコメントで「なるほどな」と納得してしまう。

聖職者になろうと考えていると所属する教会の考え方に同意しなくてはならないので、何処の教会に属するか が重要になってくると思うが、牧師になろうと考える人は、既にキリスト教徒になっている。「とりあえず、教会に行ってみようかな」と考えている人には、私は人間関係を重視して、尊敬する牧師や話の合う人達がいる教会を選んだほうがよいと勧める。「キリスト教徒になるのが先か、宗派を決めてからキリスト教徒になるのか」 と選択を問われたら、キリスト教徒になるのが先ということだ。

2010年6月7日月曜日

クリスチャンはクリスチャン辞められるの?

「クリスチャンになって、後で気が変わったらクリスチャン辞められるの?」
旧約聖書を信じるのがカトリックで新約聖書を信じるのがプロテスタントなんてキリスト教のことを全く理解してなかった頃、宗教団体はメンバーの誘いがしつこく、断りきれなかったらズルズルはまっていく。そして一回メンバーになってしまったら辞めることが出来なくなる。それなので宗教団体に関わるのは避けよと考えていた。
教会に行っていない人が「クリスチャンって何時でも辞められるの?」と疑問を感じても仕方が無い。一方、この質問は結構深い意味を持っているので、こんな質問を教会でしたら 教会の人達はどの様に対応するのだろう?
もちろん、教会に行ったことが無い人は
「教会って 気軽に行けるところなのか?」と不安なので
「クリスチャンって 何時でも辞められるの?」と疑問を抱く。少なくとも私はこんな感じで疑問を抱いていた。
きっと教会に行ったことが無い人は、クリスチャン=教会に通う人 となるので 「教会に通うのを何時でも辞められるのか?」といった意味の質問になってくるが 牧師や教会の柱になっている人達には
「洗礼を受けた後にクリスチャンを辞められるのか?」と一言では答えられない質問になってくる。
でも、教会に通っていないキリスト教のことをあまり知らない人達は、簡単で短い解答「Yes」か「No」を期待するだろう。

2010年6月6日日曜日

キリスト教徒になる利点

「クリスチャンになると、何かいいことあるの?」と聞かれたら
永遠の命が与えられる。
キリストの愛や恵みが分かりキリストや他の信者と共に喜びを分かち合える。
罪を許してもらえる。
神との関係をもてる。
祈りをかなえてもらえる。
など、様々な利点があると説明できる。 でも、こういった利点は心の中を豊かにする利点なので、キリスト教に無関心の人にはこのような利点は単にキリスト教側が述べていることだと聞き流してしまうだろう。

「クリスチャンになるとクリスマスのように、サンタクロースが毎日枕元にプレゼントをおいてくれる」となると
「ホンとかな?」ときっと無信仰者も注目するだろう。(サンタクロースはキリストと関係ないが、とりあえず ここではサンタクロースの例を使う)
実際に実物でもらえる無料プレゼントが手に入るとなると、話は変わってくる。
「クリスチャンになれば毎日実物のプレゼントがもらえる」と話をするのは現実離れかもしれない。しかし毎日とはならず、頻繁に実物でのプレゼントが無料でもらえる話を聞けば、キリスト教に興味を持つ人達が増え、クリスチャン人口が増えるのでは。

となると、「本当にクリスチャンになると イエスキリストから ただでプレゼントがもらえるのか?」
私の例でいくと
カナダでクリスチャンになって
牧師の家にただで住ましてもらった。
次のホームステイ代がただになった。
家付きの妻が見つかった。
大学の学費が半分になった。
など、いろいろと無料で手に入ったものが多い。クリスチャンになるとこの様なことが起きるとは全く予想していなかったが実際に多くのプレゼントが与えられた。(キリストにたいする信仰は誰にも負けないと思っていた事がキーポイントだろう)
もう一つ大事なこと:お祈りをすると、お祈りがかなう。クリスチャンになってから お祈りをするのが怖くなるときがあるぐらい お祈りがかなってしまう。

「物がもらえるからとキリスト教の魅力を売りに出すのはもってのほか」 と議論になりそうだ。

2010年6月5日土曜日

キリスト教徒になる前

キリスト教徒になる前に
「あなたは 神を信じますか?」と聞かれたら
「もちろんです」と答えただろう。
「あなたの信じている神はどんな神ですか?」と突っ込まれたら
「神とは天国にいて善悪を裁き。 善人は神のいる天国に行き、悪人は地獄にいく。きっとドラゴンボールに搭乗してくる神のような感じじゃないですか。」と小学生低学年が答えるような解答をしただろう。 おそらく他にもこんな感じで考えている人は多いのではないだろうか。 宗教とはとくに関係なく、日ごろの行いが良い人は天国に行けて 悪人は地獄にいけ、一般的社会常識が善・悪の判断をして総合的に善行が多ければ天国にいけると考えている人が少なくないだろう。そして、良い事を多くした人は天国で神様に褒美がもらえるなんて考えているのではないだろうか。更に日ごろ悪いことをしている人にはそのうち撥があたるなどと考えているのでは。

正月は神社に初詣に行き、お盆に先祖の墓まえり、結婚式はチャペルで、葬式は仏教でなど つかみ様がない宗教パターンをたどるのも日本の習慣の特徴。 更に星占い、手相占いなど運命・幸運をつかさどる事には興味がある人が多いだろう。
特にキリスト教を嫌っていたわけではないし 宗教に信仰心を抱くわけでもないが、運命・幸運などに関わることには耳を傾けていたのが 私がキリスト教徒になる前の姿だったと言える。
結論としては、わざわざ教会に足を運ばないでも身近な所で必要なことを補われる と言うことだ。
ちなみに、カナダ人と比べると日本人のほうが 神・運命・迷信などを信じている人が多いと感じる。それなので日本人のほうがキリスト教徒になる可能性は高いのでは。

どの様にして、このつかみ所が無い宗教バターンをたどっている人達にキリスト教の素晴らしさを伝えるのか? どの様にキリスト教に興味を持たせるのか?といったことがキーポイントなのでは。(無神論者よりもこういった人のほうがクリスチャンになる可能性が高いのでは。)

2010年6月4日金曜日

理由

私がクリスチャンになったころは「なぜ?」「なぜ なんですか?」と教会の人達にキリスト教や聖書の事を何時も聞いていた。(私の性格上どうしても理由が知りたくなる。)
そして「聖書に書かれているから」と親切に聖書に書かれている箇所を示しながら説明してくれた。

しかし、時折それでも納得がいかないことがあった。
「聖書は神の言葉だから従わなければならない」というのは分かっていたのだが「なぜ神はこんな事を言ったのだろう?」と疑問を抱くことがたびたびあった。聖書の権威に疑問を抱いているわけではなく、ただ単に「なぜ聖書に書かれているのか?」と理由が知りたいことがあった。
「神が私たちにとって良いことだと考えているから 聖書に書かれている」と解答するのも一つの理由だが
「なぜ、神は私たちに それは良いことだと考えるのか?」と疑問を感じてしまう。

キリスト教のことを勉強していると「理由を究極に追求するのは不可能では?」となってきた。人間は神ではないのだから、神が言った理由の答えを人間が出しても その答えが100%正解といえるか? 自信を持ってイエスの前で「私の答えが正しいです!」と言い切れるのだろうか?となってくる。

例えば「なぜ 神は男と女を創ったのか?」と疑問があがってくるとしよう。もちろん答えは「私たちにとってよいことだから」となるが
「男女とはどんな意味があるのだろうか?」と疑問になってくる。
「カップルが結婚し、子供をつくり、夫が働き、妻が子育てをする。そして、子孫を残す。」というシンプルな時代に私たちは住んでいないからだ。
「男女は全てに関して平等なのか?」「夫が家長ということは差別になるのか?」「男女の役割は全て一緒なのか?」「女性は男性の聖職者を指導してよいのか?」「時代・文化が変わるとその時に応じて解答を変えてよいのか?」と問題がでてくる。
聖書を読んでも簡単に答えはでてこない。一方 キリスト教リーダーは解答を迫られる。そして、様々な解答が出てくるが「果たしてどの解答が正しいのか?」となってくる。もちろん様々な解答提出以前には、専門家たちが慎重にリサーチをして結論をを出す。さらに、それぞれの結論に絶対的な自信を持っている人達もいるだろう。 「イエスはどの様に裁くのだろうか?」

「お祈りをし、ベストを尽くす」 私たちに出来ることは これぐらいでは。そして、難しい問題に熱中せず 神を愛し隣人を愛すことに専念をするのがよいのでは。