2010年5月28日金曜日

祈りをするだけでクリスチャンは生きていけるの?

私が中学生の頃だった。
友達の家に遊びに行っていた時に、ちょうどキリスト教ミッショナリーが訪れたのだが 友達の母親がミッショナリーをさっさと追い払払ってしまった。
「お祈りをしているだけで生きていけるわけが無いじゃないの・・・人は働かなければご飯を食べられない・・・全く何を考えている人達なの・・・」と私と友達に言い聞かせるようにコメントをした。
キリスト教のことをまったく知らなかった私は
「キリスト教徒は不道徳な団体だ」と解釈をしている友達の母親のコメントに
「全くそのとおりだ!」と納得してしまった。
数十年前の出来事なのに、不思議に今でも記憶に残っている。
もちろん、クリスチャンで無い友達の母親の解答は一理あるが
今「クリスチャンは祈りをしているだけで生きていけるか?」と解答を迫られたら
「お祈りをしているだけで生きていけるんじゃないだろうか」とすこし言葉の最後を濁して答えるだろう。
「Yes」か「No」かの質問だったら、「Yes」と答えるしかないが、本当にお祈りをしているだけでキリスト教徒は生活をおくっていけるのか?と心の奥に疑問が残ってしまう。
もちろん、イエス・キリストが明日やってくるなら お祈りをしているのが一番良いことかも知れないが、現実的にイエスが再びやってくるのは何時なのか私たちには分からない。

「お祈りをしているだけで生きていけるのか?」この質問をどう解釈するかによって解答の仕方が微妙に変わってくるのでは。
一つの解釈の仕方は、「人間は食べないと生きていけない。働かざるもの食うべからず!お祈りをするだけで生きていこうなんてもってのほか!」と、きっとキリスト教に無関心な人はこんな解釈をするのではないだろうか。
一方「お祈りをしているだけで生活しているなんて 素晴らしい!」と感じるクリスチャンもいるのでは。

お祈りをすることは欠かすことが出来だとクリスチャンの誰もが知っていることだか「はたして、どれだけお祈りをするのか?」「お祈りをする事を専業で生きていけるのか?」となると難しくなってくる。

時折 教会で「お祈りは大切なことだ」と説教を耳にするが「はたしてどれだけお祈りをしなくてはいけないのか?」とふと疑問に思うクリスチャンもいるのではないだろうか。牧師は職業柄お祈りをする機会が自然と多くなるが、一般的に、家庭を持っているキリスト教の人は働いたり子育てをしたりして忙しく、お祈りをする機会が限られてしまう。もちろん、独身の人達も毎日急がし生活を送っていて、つい祈りをする機会が限られてしまうだろう。そういった人達が各自のタスクを辞めてお祈りをしていいのだろうか?

「お祈りをしているだけで生きていけるのか?」の解答はこの様になるのではないだろうか:キリスト教徒はお祈りをしているだけで生きていける。一方、神はキリスト教徒各自にタスクを与える。そのタスクの中には、家族を養い、キリスト教の兄弟・姉妹を励まし助け合うことで、そういったタスクを怠るわけにはいけない。キリスト教徒の中には祈りをすることに興味をいだき、情熱・責任感・喜びを感じる人がいるのではないだろうか。そういった人は周りのクリスチャンから度切れの無い祈りのリクエストを受け取り、毎日祈りをし続けるのではないだろうか。そして、周りのクリスチャンが祈りをしているクリスチャンをサポートするのでは。それなので「お祈りをしているだけでクリスチャンは生きていける。」
ちなみに、祈りを専業にするクリスチャンは祈りの成果を上げないとサポートされないだろう。 実際 誰が祈りを専業にしているのか?と突っ込んでみると解答は少し困難になるが、理論的には可能だということになる。(実際に誰が祈りを専業にしているのか?の解答は、お祈りが大好きな牧師となるだろう。なぜ お祈りの大好きな牧師が解答なのかは 説明が長くなりそうなので また機会があったときということで・・・)

「毎日、どれだけお祈りをするのか?」クリスチャン各自で解答を出せばよいのではないだろうか。主と共に歩み、聖書を読み、キリスト教徒・兄弟姉妹と接していることによって自然と答えが出てくるのでは。

残念ながら、神を信じない人は「お祈りをして生きていこうなんて・・・」と良いイメージを抱かないだろう。
「お祈りをしてキリスト教徒として生きていこう」なんてよほどの決断力・精神力と信仰の深さがある人だと 私は尊敬してしまう。