2010年7月26日月曜日

神の仕業

再起不能だったデジカメが突然直ったが、はたして主の神はどのようにしてデジカメを直したのか?神は電化製品をどの様に直すのか?と くだらないことを真剣に考えてしまう。
なぜならば、この問題の解答の仕方によって教会は分裂するような気がするし、現代のキリスト教布教にとって重要なこととなるような気がするからだ。
もちろん、壊れていたデジカメや時計などが突然動き出したのは、きっと どこか内部の接続が 何かのきっかけでおかしくなって、何かのきっかけで接続がもとどうりになったのだろう。“デジカメを手に取った時の動作・衝撃で、内部の接続が直って正常に動き出した。”と いうのが無難な答えになるだろうが、少し哲学的に考えてみると、いろいろと問題が出てくる。
普通、電化製品が壊れたら修理に出して直すので「神は電化製品を直さない」というのが解答だと思うがこの回答には少し問題がある。神が何をするか、しないかをキリスト教徒が決めていいのか?となるるし、全知全能の神が、なぜ電化製品を直さないのか?それとも電化製品は直せないのか?となる。
一方、一般的に、神が創ったものは神が直し人間が造ったものは人間が直す と考えるので「神は電化製品を直す」と言ってしまうと常識外の解答になるので 更に問題が起きる。(常識外の事や聖書に書いていない事:電化製品 を課題に取り上げると意見が分かれるので教会に波乱が起きる。)人間は神が創ったので病気になってお祈りをすれば どんな難病でも神は治してくれると信じるのが普通(イエスが全ての病気を必ず治してくれると考えているクリスチャンは少ないだろうが、時折、現代の医学でも治せなかった病を“祈りをしてイエスが治した”と聞くので、「イエスは病気を治せない」と考えることはごくまれだろう。)だが、機械類は人間が造ったので話が変わってくる。
身の回りには人間が造ったものが多いし、その便利さに頼っているので神の存在感を忘れがちになってしまう。そして、その修理・改善は人間が行うので“神”の入る余地がなくなってしまう。そんな環境の中で、どの様に「神の仕業」を神学的に日常生活に組み入れていくのか?と 考えるのも大切なことではないだろうか。