いろいろなきっかけでキリストに導かれるのではないだろうか。教会に通い始めたり、聖書を読み始めたりすることが、きっかけになってキリストに導けれる第一歩になることが多いのでは。
ちょっと考えてみると、クリスチャンになるきっかけはキリスト教徒になろうとして、教会に通い始めたり、聖書を読んだりすることだけではない。各自の利益を求めて、ふとキリスト教徒になる機会が訪れることが多いのでは。
例えば、ローマ帝国の皇帝・コンスタンティヌスは戦いに勝つために祈りをし、キリストの神の予兆を見た。その予兆がきっかけでコンスタンティヌスはキリスト教徒になる。そして、キリスト教徒は迫害から救われキリスト教が広まった。
無教徒が己の利益を求めて教会に訪れる・キリストに頼みごとをする事:キリスト教を利用する事に問題があるのか?ということが問題になってくる。
もちろん、成果が上がればよれればいいのだが、結果が出るまで時間が掛かるだろうし、犠牲も避けられないかも知れない。
キリスト教徒はキリストの愛を忍耐強く隣人に示す。そして、キリストが信仰者を守ってくれるということが原理になるだろう。ただ、この原則に従うのにはかなりの信仰が必要なのでは。こういった所がキリスト教の奥の深さなのでは。そして、その奥の深さに私は魅力を感じる。