再起不能だったデジカメが突然直ったが、はたして主の神はどのようにしてデジカメを直したのか?神は電化製品をどの様に直すのか?と くだらないことを真剣に考えてしまう。
なぜならば、この問題の解答の仕方によって教会は分裂するような気がするし、現代のキリスト教布教にとって重要なこととなるような気がするからだ。
もちろん、壊れていたデジカメや時計などが突然動き出したのは、きっと どこか内部の接続が 何かのきっかけでおかしくなって、何かのきっかけで接続がもとどうりになったのだろう。“デジカメを手に取った時の動作・衝撃で、内部の接続が直って正常に動き出した。”と いうのが無難な答えになるだろうが、少し哲学的に考えてみると、いろいろと問題が出てくる。
普通、電化製品が壊れたら修理に出して直すので「神は電化製品を直さない」というのが解答だと思うがこの回答には少し問題がある。神が何をするか、しないかをキリスト教徒が決めていいのか?となるるし、全知全能の神が、なぜ電化製品を直さないのか?それとも電化製品は直せないのか?となる。
一方、一般的に、神が創ったものは神が直し人間が造ったものは人間が直す と考えるので「神は電化製品を直す」と言ってしまうと常識外の解答になるので 更に問題が起きる。(常識外の事や聖書に書いていない事:電化製品 を課題に取り上げると意見が分かれるので教会に波乱が起きる。)人間は神が創ったので病気になってお祈りをすれば どんな難病でも神は治してくれると信じるのが普通(イエスが全ての病気を必ず治してくれると考えているクリスチャンは少ないだろうが、時折、現代の医学でも治せなかった病を“祈りをしてイエスが治した”と聞くので、「イエスは病気を治せない」と考えることはごくまれだろう。)だが、機械類は人間が造ったので話が変わってくる。
身の回りには人間が造ったものが多いし、その便利さに頼っているので神の存在感を忘れがちになってしまう。そして、その修理・改善は人間が行うので“神”の入る余地がなくなってしまう。そんな環境の中で、どの様に「神の仕業」を神学的に日常生活に組み入れていくのか?と 考えるのも大切なことではないだろうか。
2010年7月23日金曜日
2010年7月18日日曜日
聖書はどこから読めばいいのか
「聖書はどこから読めばいいの?」と聞かれたら
「ヨハネの福音書・・・」と 答えるのが普通のような気がするが、ヨハネの福音書を誰にでも薦めていいのか?といつも考えてしまう。もちろん、ヨハネの福音書を読むことには何も問題は無いが ふと「ヨハネ3章16節をヨハネの福音書から読んで理解できるのか?」と疑問を抱く。
さらに「聖書はどこから読めばいいの?」とクリスチャンからの質問か、キリスト教に興味がある人からか、聖書に興味を持っている人からか、男性・女性・年齢などによって薦める箇所を変えたほが各自の聖書に対する理解度が効果的になるのでは。
「聖書はどこから読めばいいの?」と聞かれたら
どうやったら その人は聖書を楽しく読めるのか?ということを答える人は考慮したほうがよいのでは。
「ヨハネの福音書・・・」と 答えるのが普通のような気がするが、ヨハネの福音書を誰にでも薦めていいのか?といつも考えてしまう。もちろん、ヨハネの福音書を読むことには何も問題は無いが ふと「ヨハネ3章16節をヨハネの福音書から読んで理解できるのか?」と疑問を抱く。
さらに「聖書はどこから読めばいいの?」とクリスチャンからの質問か、キリスト教に興味がある人からか、聖書に興味を持っている人からか、男性・女性・年齢などによって薦める箇所を変えたほが各自の聖書に対する理解度が効果的になるのでは。
「聖書はどこから読めばいいの?」と聞かれたら
どうやったら その人は聖書を楽しく読めるのか?ということを答える人は考慮したほうがよいのでは。
2010年7月17日土曜日
メッセージ
「献金を集めて教会を建てろと主の神からのメッセージがあった・・・などと教会で説教が始まったらどうするか」とラジオで説明していた。教会を分裂するようなトピックなので少し驚いた。
無難な解答は:神からのメッセージ=聖書。しかし「主の神・イエスキリストと関係お持つ・・・」「イエスは私達の心にいる・・・」「私達の神は生きている神だ・・・」などと時折教会で話が始まるし、聖書では神はいろいろな人達と会話をしたので 果たして現代 神は聖書のように人に話しかけるのか?とめんどくさくなる。
「神からのメッセージだ!」と誰も説教をしない教会に通うのが一つの無難な策なのでは。
無難な解答は:神からのメッセージ=聖書。しかし「主の神・イエスキリストと関係お持つ・・・」「イエスは私達の心にいる・・・」「私達の神は生きている神だ・・・」などと時折教会で話が始まるし、聖書では神はいろいろな人達と会話をしたので 果たして現代 神は聖書のように人に話しかけるのか?とめんどくさくなる。
「神からのメッセージだ!」と誰も説教をしない教会に通うのが一つの無難な策なのでは。
2010年7月15日木曜日
2010年7月14日水曜日
聖書
「僕の国では盗みをすると、罰として腕を切られるんだ!」と息子のクラスメイトが言ったらしい。本当か嘘かは別として「確かマタイの福音書5章あたりに似たようなことが書いてあるのでは・・・」ということが頭をよぎった。
キリスト教徒になるとイエスの教え(聖書)に従わなければならない、というか、従うのが常識になるが、聖書を読んでいくと 聖書に書かれている教えをそのまま従うのか?と解釈の仕方が難しくなってくる。もちろん、聖書に書かれている教えに従うことに問題が無い と考えるクリスチャンには、特に問題にならないだろう。きっと、一般的な常識・道徳などが基本になって聖書を読むので、テサロニケの信徒への手紙一 5章26節:聖なるキスをしなさい と書いてある所などは問題なく読み過ごせるのではないだろうか。
不思議と私は物事を難しく考えてしまう性格なので、イエスの教え:山上の説教・マタイの福音書5-7章 などはキリスト教徒としての心構えの教えなのか?どこの箇所を聖書の言葉のまま実行しなくてはならないのか?と考えてしまう。誰かが私の頬をたたいたら、私は反対の頬を実際に相手に向けなくてはならないのか?そして、クリスチャンは戦争に参加していいのかいいのか?と考えてしまう。更に難しい問題は、誰が聖書の解釈をするのか?となる。教会の偉い人にそういった解釈は任せればよい、ということが一つの解決法だが この解決法はプロテスタントの間ではあまり人気が無いような感じだ。
すでに西洋で聖書の解釈を長い間しているので、結局はそのいろいろな解釈の一つに従えばよいということになるだろう。また、個人でその聖書の解釈に納得がいかなかったらどうするのか?そして、その聖書の解釈がそのクリスチャンに対してどれくらい重大なことか?となる。
キリスト教徒になるとイエスの教え(聖書)に従わなければならない、というか、従うのが常識になるが、聖書を読んでいくと 聖書に書かれている教えをそのまま従うのか?と解釈の仕方が難しくなってくる。もちろん、聖書に書かれている教えに従うことに問題が無い と考えるクリスチャンには、特に問題にならないだろう。きっと、一般的な常識・道徳などが基本になって聖書を読むので、テサロニケの信徒への手紙一 5章26節:聖なるキスをしなさい と書いてある所などは問題なく読み過ごせるのではないだろうか。
不思議と私は物事を難しく考えてしまう性格なので、イエスの教え:山上の説教・マタイの福音書5-7章 などはキリスト教徒としての心構えの教えなのか?どこの箇所を聖書の言葉のまま実行しなくてはならないのか?と考えてしまう。誰かが私の頬をたたいたら、私は反対の頬を実際に相手に向けなくてはならないのか?そして、クリスチャンは戦争に参加していいのかいいのか?と考えてしまう。更に難しい問題は、誰が聖書の解釈をするのか?となる。教会の偉い人にそういった解釈は任せればよい、ということが一つの解決法だが この解決法はプロテスタントの間ではあまり人気が無いような感じだ。
すでに西洋で聖書の解釈を長い間しているので、結局はそのいろいろな解釈の一つに従えばよいということになるだろう。また、個人でその聖書の解釈に納得がいかなかったらどうするのか?そして、その聖書の解釈がそのクリスチャンに対してどれくらい重大なことか?となる。
2010年7月12日月曜日
クリスチャンになるきっかけ
いろいろなきっかけでキリストに導かれるのではないだろうか。教会に通い始めたり、聖書を読み始めたりすることが、きっかけになってキリストに導けれる第一歩になることが多いのでは。
ちょっと考えてみると、クリスチャンになるきっかけはキリスト教徒になろうとして、教会に通い始めたり、聖書を読んだりすることだけではない。各自の利益を求めて、ふとキリスト教徒になる機会が訪れることが多いのでは。
例えば、ローマ帝国の皇帝・コンスタンティヌスは戦いに勝つために祈りをし、キリストの神の予兆を見た。その予兆がきっかけでコンスタンティヌスはキリスト教徒になる。そして、キリスト教徒は迫害から救われキリスト教が広まった。
無教徒が己の利益を求めて教会に訪れる・キリストに頼みごとをする事:キリスト教を利用する事に問題があるのか?ということが問題になってくる。
もちろん、成果が上がればよれればいいのだが、結果が出るまで時間が掛かるだろうし、犠牲も避けられないかも知れない。
キリスト教徒はキリストの愛を忍耐強く隣人に示す。そして、キリストが信仰者を守ってくれるということが原理になるだろう。ただ、この原則に従うのにはかなりの信仰が必要なのでは。こういった所がキリスト教の奥の深さなのでは。そして、その奥の深さに私は魅力を感じる。
ちょっと考えてみると、クリスチャンになるきっかけはキリスト教徒になろうとして、教会に通い始めたり、聖書を読んだりすることだけではない。各自の利益を求めて、ふとキリスト教徒になる機会が訪れることが多いのでは。
例えば、ローマ帝国の皇帝・コンスタンティヌスは戦いに勝つために祈りをし、キリストの神の予兆を見た。その予兆がきっかけでコンスタンティヌスはキリスト教徒になる。そして、キリスト教徒は迫害から救われキリスト教が広まった。
無教徒が己の利益を求めて教会に訪れる・キリストに頼みごとをする事:キリスト教を利用する事に問題があるのか?ということが問題になってくる。
もちろん、成果が上がればよれればいいのだが、結果が出るまで時間が掛かるだろうし、犠牲も避けられないかも知れない。
キリスト教徒はキリストの愛を忍耐強く隣人に示す。そして、キリストが信仰者を守ってくれるということが原理になるだろう。ただ、この原則に従うのにはかなりの信仰が必要なのでは。こういった所がキリスト教の奥の深さなのでは。そして、その奥の深さに私は魅力を感じる。
2010年7月9日金曜日
教会・聖書・キリスト教
「貴重な日曜日に教会に行くのはめんどくさい、けど、キリスト教に興味がある。でも、聖書を読むのも・・・」こんな人はどうしたらいいのだろうか?要するに、聖書・教会・キリスト教をどれだけ切り離してよいのか?となる。
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