「クリスチャンになったら離婚できないんでしょ、だから絶対にクリスチャンにならない・・・」と知り合いがコメントをした。
なかなか鋭い観察で、「絶対にクリスチャンにならない」ときっぱりとした宣言だ。
「それなら、離婚が許可されているのならクリスチャンになるの?」と問い返してみようと思ったが、きっと他のキリスト教に関する納得がいかない事を言い出して 言い訳のようにクリスチャンにならない理由を挙げてくるのだろうと思ったので黙っていた。(単にキリスト教の嫌いなところを指摘してキリスト教徒にならない理由を正当化させる人がよくいる。)
それならば「クリスチャンにならないと地獄へ落ちるぞ。離婚と地獄にいくのとどっちがいいのか?」と言ってみようかと ふと考えたが こんな事を口に出したら
「キリスト教徒に脅された!」とかえって逆効果になるので 沈黙をたもった。
クリスチャンになるといろいろな規則を守らなくてはならないので、クリスチャンになることをためらってしまう人がいのではないだろうか。
「貴重な休暇の日曜日に教会に行かなくてはいけない。忙しい時間をさいて祈りをしなくてはいけない。禁酒・禁煙など禁じられることがたくさんある。わざわざそんな事をしてまでキリスト教徒になるのは 実際価値があるのだろうか?」と考えてしまうのはもっともだ。更に、こういった面からキリスト教を観察すると何も楽しいことが見つからないだろう。
さて、キリスト教徒としてこういったイメージを抱いている人達にどの様に対応するのか?というのが課題になってくる。確かに聖書には離婚をしてはいけないと書かれているが、実際に離婚をして再婚をした牧師が結構いるし、禁酒・禁煙などと聖書には はっきりと書かれていない。それに、規則を守るから人は救われるのではなく、神の恵みによって救われると聖書には書かれている。 かといってキリスト教徒は離婚し放題、酒飲み放題、タバコ吸い放題とキリスト教徒でない人に理解されても困ってしまう。
キリスト教徒になって規則を破ると イエスキリストはその人を見放すのか?それともキリストの愛で永遠にその人を見守ってくれるのか?規則の破り方によって条件が変わってくるのか?と難しくなってくる。
更に、キリストを信じ悔い改めよ とあるが「悔い改めよ」とはどういった意味なのか?ということが問題になってくる。
キリスト教徒になっても罪を犯し続けるのだから あまり深く考えず キリストに感謝しグッスリと眠るということがいいのでは。
2010年5月28日金曜日
祈りをするだけでクリスチャンは生きていけるの?
私が中学生の頃だった。
友達の家に遊びに行っていた時に、ちょうどキリスト教ミッショナリーが訪れたのだが 友達の母親がミッショナリーをさっさと追い払払ってしまった。
「お祈りをしているだけで生きていけるわけが無いじゃないの・・・人は働かなければご飯を食べられない・・・全く何を考えている人達なの・・・」と私と友達に言い聞かせるようにコメントをした。
キリスト教のことをまったく知らなかった私は
「キリスト教徒は不道徳な団体だ」と解釈をしている友達の母親のコメントに
「全くそのとおりだ!」と納得してしまった。
数十年前の出来事なのに、不思議に今でも記憶に残っている。
もちろん、クリスチャンで無い友達の母親の解答は一理あるが
今「クリスチャンは祈りをしているだけで生きていけるか?」と解答を迫られたら
「お祈りをしているだけで生きていけるんじゃないだろうか」とすこし言葉の最後を濁して答えるだろう。
「Yes」か「No」かの質問だったら、「Yes」と答えるしかないが、本当にお祈りをしているだけでキリスト教徒は生活をおくっていけるのか?と心の奥に疑問が残ってしまう。
もちろん、イエス・キリストが明日やってくるなら お祈りをしているのが一番良いことかも知れないが、現実的にイエスが再びやってくるのは何時なのか私たちには分からない。
「お祈りをしているだけで生きていけるのか?」この質問をどう解釈するかによって解答の仕方が微妙に変わってくるのでは。
一つの解釈の仕方は、「人間は食べないと生きていけない。働かざるもの食うべからず!お祈りをするだけで生きていこうなんてもってのほか!」と、きっとキリスト教に無関心な人はこんな解釈をするのではないだろうか。
一方「お祈りをしているだけで生活しているなんて 素晴らしい!」と感じるクリスチャンもいるのでは。
お祈りをすることは欠かすことが出来だとクリスチャンの誰もが知っていることだか「はたして、どれだけお祈りをするのか?」「お祈りをする事を専業で生きていけるのか?」となると難しくなってくる。
時折 教会で「お祈りは大切なことだ」と説教を耳にするが「はたしてどれだけお祈りをしなくてはいけないのか?」とふと疑問に思うクリスチャンもいるのではないだろうか。牧師は職業柄お祈りをする機会が自然と多くなるが、一般的に、家庭を持っているキリスト教の人は働いたり子育てをしたりして忙しく、お祈りをする機会が限られてしまう。もちろん、独身の人達も毎日急がし生活を送っていて、つい祈りをする機会が限られてしまうだろう。そういった人達が各自のタスクを辞めてお祈りをしていいのだろうか?
「お祈りをしているだけで生きていけるのか?」の解答はこの様になるのではないだろうか:キリスト教徒はお祈りをしているだけで生きていける。一方、神はキリスト教徒各自にタスクを与える。そのタスクの中には、家族を養い、キリスト教の兄弟・姉妹を励まし助け合うことで、そういったタスクを怠るわけにはいけない。キリスト教徒の中には祈りをすることに興味をいだき、情熱・責任感・喜びを感じる人がいるのではないだろうか。そういった人は周りのクリスチャンから度切れの無い祈りのリクエストを受け取り、毎日祈りをし続けるのではないだろうか。そして、周りのクリスチャンが祈りをしているクリスチャンをサポートするのでは。それなので「お祈りをしているだけでクリスチャンは生きていける。」
ちなみに、祈りを専業にするクリスチャンは祈りの成果を上げないとサポートされないだろう。 実際 誰が祈りを専業にしているのか?と突っ込んでみると解答は少し困難になるが、理論的には可能だということになる。(実際に誰が祈りを専業にしているのか?の解答は、お祈りが大好きな牧師となるだろう。なぜ お祈りの大好きな牧師が解答なのかは 説明が長くなりそうなので また機会があったときということで・・・)
「毎日、どれだけお祈りをするのか?」クリスチャン各自で解答を出せばよいのではないだろうか。主と共に歩み、聖書を読み、キリスト教徒・兄弟姉妹と接していることによって自然と答えが出てくるのでは。
残念ながら、神を信じない人は「お祈りをして生きていこうなんて・・・」と良いイメージを抱かないだろう。
「お祈りをしてキリスト教徒として生きていこう」なんてよほどの決断力・精神力と信仰の深さがある人だと 私は尊敬してしまう。
友達の家に遊びに行っていた時に、ちょうどキリスト教ミッショナリーが訪れたのだが 友達の母親がミッショナリーをさっさと追い払払ってしまった。
「お祈りをしているだけで生きていけるわけが無いじゃないの・・・人は働かなければご飯を食べられない・・・全く何を考えている人達なの・・・」と私と友達に言い聞かせるようにコメントをした。
キリスト教のことをまったく知らなかった私は
「キリスト教徒は不道徳な団体だ」と解釈をしている友達の母親のコメントに
「全くそのとおりだ!」と納得してしまった。
数十年前の出来事なのに、不思議に今でも記憶に残っている。
もちろん、クリスチャンで無い友達の母親の解答は一理あるが
今「クリスチャンは祈りをしているだけで生きていけるか?」と解答を迫られたら
「お祈りをしているだけで生きていけるんじゃないだろうか」とすこし言葉の最後を濁して答えるだろう。
「Yes」か「No」かの質問だったら、「Yes」と答えるしかないが、本当にお祈りをしているだけでキリスト教徒は生活をおくっていけるのか?と心の奥に疑問が残ってしまう。
もちろん、イエス・キリストが明日やってくるなら お祈りをしているのが一番良いことかも知れないが、現実的にイエスが再びやってくるのは何時なのか私たちには分からない。
「お祈りをしているだけで生きていけるのか?」この質問をどう解釈するかによって解答の仕方が微妙に変わってくるのでは。
一つの解釈の仕方は、「人間は食べないと生きていけない。働かざるもの食うべからず!お祈りをするだけで生きていこうなんてもってのほか!」と、きっとキリスト教に無関心な人はこんな解釈をするのではないだろうか。
一方「お祈りをしているだけで生活しているなんて 素晴らしい!」と感じるクリスチャンもいるのでは。
お祈りをすることは欠かすことが出来だとクリスチャンの誰もが知っていることだか「はたして、どれだけお祈りをするのか?」「お祈りをする事を専業で生きていけるのか?」となると難しくなってくる。
時折 教会で「お祈りは大切なことだ」と説教を耳にするが「はたしてどれだけお祈りをしなくてはいけないのか?」とふと疑問に思うクリスチャンもいるのではないだろうか。牧師は職業柄お祈りをする機会が自然と多くなるが、一般的に、家庭を持っているキリスト教の人は働いたり子育てをしたりして忙しく、お祈りをする機会が限られてしまう。もちろん、独身の人達も毎日急がし生活を送っていて、つい祈りをする機会が限られてしまうだろう。そういった人達が各自のタスクを辞めてお祈りをしていいのだろうか?
「お祈りをしているだけで生きていけるのか?」の解答はこの様になるのではないだろうか:キリスト教徒はお祈りをしているだけで生きていける。一方、神はキリスト教徒各自にタスクを与える。そのタスクの中には、家族を養い、キリスト教の兄弟・姉妹を励まし助け合うことで、そういったタスクを怠るわけにはいけない。キリスト教徒の中には祈りをすることに興味をいだき、情熱・責任感・喜びを感じる人がいるのではないだろうか。そういった人は周りのクリスチャンから度切れの無い祈りのリクエストを受け取り、毎日祈りをし続けるのではないだろうか。そして、周りのクリスチャンが祈りをしているクリスチャンをサポートするのでは。それなので「お祈りをしているだけでクリスチャンは生きていける。」
ちなみに、祈りを専業にするクリスチャンは祈りの成果を上げないとサポートされないだろう。 実際 誰が祈りを専業にしているのか?と突っ込んでみると解答は少し困難になるが、理論的には可能だということになる。(実際に誰が祈りを専業にしているのか?の解答は、お祈りが大好きな牧師となるだろう。なぜ お祈りの大好きな牧師が解答なのかは 説明が長くなりそうなので また機会があったときということで・・・)
「毎日、どれだけお祈りをするのか?」クリスチャン各自で解答を出せばよいのではないだろうか。主と共に歩み、聖書を読み、キリスト教徒・兄弟姉妹と接していることによって自然と答えが出てくるのでは。
残念ながら、神を信じない人は「お祈りをして生きていこうなんて・・・」と良いイメージを抱かないだろう。
「お祈りをしてキリスト教徒として生きていこう」なんてよほどの決断力・精神力と信仰の深さがある人だと 私は尊敬してしまう。
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