2010年7月14日水曜日

聖書

「僕の国では盗みをすると、罰として腕を切られるんだ!」と息子のクラスメイトが言ったらしい。本当か嘘かは別として「確かマタイの福音書5章あたりに似たようなことが書いてあるのでは・・・」ということが頭をよぎった。
キリスト教徒になるとイエスの教え(聖書)に従わなければならない、というか、従うのが常識になるが、聖書を読んでいくと 聖書に書かれている教えをそのまま従うのか?と解釈の仕方が難しくなってくる。もちろん、聖書に書かれている教えに従うことに問題が無い と考えるクリスチャンには、特に問題にならないだろう。きっと、一般的な常識・道徳などが基本になって聖書を読むので、テサロニケの信徒への手紙一 5章26節:聖なるキスをしなさい と書いてある所などは問題なく読み過ごせるのではないだろうか。
不思議と私は物事を難しく考えてしまう性格なので、イエスの教え:山上の説教・マタイの福音書5-7章 などはキリスト教徒としての心構えの教えなのか?どこの箇所を聖書の言葉のまま実行しなくてはならないのか?と考えてしまう。誰かが私の頬をたたいたら、私は反対の頬を実際に相手に向けなくてはならないのか?そして、クリスチャンは戦争に参加していいのかいいのか?と考えてしまう。更に難しい問題は、誰が聖書の解釈をするのか?となる。教会の偉い人にそういった解釈は任せればよい、ということが一つの解決法だが この解決法はプロテスタントの間ではあまり人気が無いような感じだ。
すでに西洋で聖書の解釈を長い間しているので、結局はそのいろいろな解釈の一つに従えばよいということになるだろう。また、個人でその聖書の解釈に納得がいかなかったらどうするのか?そして、その聖書の解釈がそのクリスチャンに対してどれくらい重大なことか?となる。

2010年7月12日月曜日

クリスチャンになるきっかけ

いろいろなきっかけでキリストに導かれるのではないだろうか。教会に通い始めたり、聖書を読み始めたりすることが、きっかけになってキリストに導けれる第一歩になることが多いのでは。
ちょっと考えてみると、クリスチャンになるきっかけはキリスト教徒になろうとして、教会に通い始めたり、聖書を読んだりすることだけではない。各自の利益を求めて、ふとキリスト教徒になる機会が訪れることが多いのでは。
例えば、ローマ帝国の皇帝・コンスタンティヌスは戦いに勝つために祈りをし、キリストの神の予兆を見た。その予兆がきっかけでコンスタンティヌスはキリスト教徒になる。そして、キリスト教徒は迫害から救われキリスト教が広まった。
無教徒が己の利益を求めて教会に訪れる・キリストに頼みごとをする事:キリスト教を利用する事に問題があるのか?ということが問題になってくる。
もちろん、成果が上がればよれればいいのだが、結果が出るまで時間が掛かるだろうし、犠牲も避けられないかも知れない。
キリスト教徒はキリストの愛を忍耐強く隣人に示す。そして、キリストが信仰者を守ってくれるということが原理になるだろう。ただ、この原則に従うのにはかなりの信仰が必要なのでは。こういった所がキリスト教の奥の深さなのでは。そして、その奥の深さに私は魅力を感じる。

2010年7月9日金曜日

教会・聖書・キリスト教

「貴重な日曜日に教会に行くのはめんどくさい、けど、キリスト教に興味がある。でも、聖書を読むのも・・・」こんな人はどうしたらいいのだろうか?要するに、聖書・教会・キリスト教をどれだけ切り離してよいのか?となる。