クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする事だとは分かっていても、つい“クリスマスプレゼントは何を買おうか?”“何をもらえるのだろうか?”など、全く関係ないことが頭に浮かんできた。果たしてこの様なことはキリスト教徒としてOKなのだろうか?と ふと考えてみた。
「周りのクリスチャンも同じようなこ行動をとっているので問題が無いのかも知れない。」と考えるのも問題が無いのかも知れない。
「無駄なプレゼントなど買わないで、困って人達を助けるべきだ。」と極端になると、波紋が広まってしまうのではないだろうか。確かに日常生活に必要なものはそろっているので、わざわざプレゼントを買う必要がないし、困っている人達を助けるのはキリスト教徒として欠かせないことだが、実際に周りの人達と反する行動に出るのは難しくなる。
何をするにも無理をせず、喜びや誇りをもちながら、前向きに行動するということがよいのでは。
2010年12月13日月曜日
理想的クリスチャン
教会に通い続けたり、聖書を読み続けたりするとクリスチャンとはどういうことかということが分かってくるが、 全ての聖書の教えを実行できるのは苦難ことも分かってくる。
どんな行いをすれば理想のクリスチャンになれるのは分かってくるのだが、現実的には不可能なのでは?となってくる。例えば、キリスト教徒はイエス・キリストの様になろうとする。しかし、罪を犯さないイエスは神であって、キリスト教徒は罪を犯すし 神にもなれない。目標・ゴールを設定しても、絶対にその目標に達成できない。
もちろん、そのゴールに向かって地道に歩んで行けばよいのだろうが、あまりにもゴールが遠すぎて「果たしてゴールにたどり着けるのだろうか?」と疑問になってくる。
きっと、物事をあまり深く考えないで、前向きに考え、リラックスするのが好いのだろう。
そんな事を考えていると、カルヴァン派の人達が少し羨ましくなる。
どんな行いをすれば理想のクリスチャンになれるのは分かってくるのだが、現実的には不可能なのでは?となってくる。例えば、キリスト教徒はイエス・キリストの様になろうとする。しかし、罪を犯さないイエスは神であって、キリスト教徒は罪を犯すし 神にもなれない。目標・ゴールを設定しても、絶対にその目標に達成できない。
もちろん、そのゴールに向かって地道に歩んで行けばよいのだろうが、あまりにもゴールが遠すぎて「果たしてゴールにたどり着けるのだろうか?」と疑問になってくる。
きっと、物事をあまり深く考えないで、前向きに考え、リラックスするのが好いのだろう。
そんな事を考えていると、カルヴァン派の人達が少し羨ましくなる。
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