2011年1月7日金曜日

クリスマス

クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする事だとは分かっていても、つい“クリスマスプレゼントは何を買おうか?”“何をもらえるのだろうか?”など、全く関係ないことが頭に浮かんできた。果たしてこの様なことはキリスト教徒としてOKなのだろうか?と ふと考えてみた。
「周りのクリスチャンも同じようなこ行動をとっているので問題が無いのかも知れない。」と考えるのも問題が無いのかも知れない。
「無駄なプレゼントなど買わないで、困って人達を助けるべきだ。」と極端になると、波紋が広まってしまうのではないだろうか。確かに日常生活に必要なものはそろっているので、わざわざプレゼントを買う必要がないし、困っている人達を助けるのはキリスト教徒として欠かせないことだが、実際に周りの人達と反する行動に出るのは難しくなる。
何をするにも無理をせず、喜びや誇りをもちながら、前向きに行動するということがよいのでは。

2010年12月13日月曜日

理想的クリスチャン

教会に通い続けたり、聖書を読み続けたりするとクリスチャンとはどういうことかということが分かってくるが、 全ての聖書の教えを実行できるのは苦難ことも分かってくる。
どんな行いをすれば理想のクリスチャンになれるのは分かってくるのだが、現実的には不可能なのでは?となってくる。例えば、キリスト教徒はイエス・キリストの様になろうとする。しかし、罪を犯さないイエスは神であって、キリスト教徒は罪を犯すし 神にもなれない。目標・ゴールを設定しても、絶対にその目標に達成できない。
もちろん、そのゴールに向かって地道に歩んで行けばよいのだろうが、あまりにもゴールが遠すぎて「果たしてゴールにたどり着けるのだろうか?」と疑問になってくる。
きっと、物事をあまり深く考えないで、前向きに考え、リラックスするのが好いのだろう。
そんな事を考えていると、カルヴァン派の人達が少し羨ましくなる。

2010年12月10日金曜日

教会

生活が忙しくなると、つい教会関係の事は後回しになってしまう様な気がするが、実際キリスト教関係のことを後回しにすることにどのような問題があるのだろうか?
神との関係が薄くなってしまう、「いい加減なキリスト教徒だ」と周りの人達に思われたり、「本当のキリスト教徒ではない」などと判断されだろう。
キリスト教が生活の中に密着していれば、生活が忙しくなっても問題ないだろうが、キリスト教が毎日食事をする事の様に生活の一部になっていない人達もいるだろう。教会はこの様な人達に実際どの様な手助けをくれるのだろうか?とふと考えた。